「私のどこが好き?」
「全体は部分の総和以上」はゲシュタルト心理学だが、最近なるほどと感じる節が多い。
例えば、僕。
僕は大学生で、ガリガリで、ギターが好きで、煙草を吸っていて、今布団に潜り込んでいて、、、
言葉で説明しようとすればキリがない。
どれだけ部分を説明し、総和しても、
それは全体には遠く及ばない。
就活で「自己分析」とやらをしたときについてくるモヤモヤの正体かもしれない。
紙に自分を言語化しても、それを自分とは到底認識出来ない。寧ろ気持ちが悪い。
昨日、日記を始めようと、一日を振り返ってみた。基本的に日記はその日をその日たらしめる何かを書けば十分だ。
しかしそれが上手く出来ない。
なにもしていない。
では一日にしたことを列挙してその中から選ぼう。
これも出来ない。
全然違う。
部分をどれだけ列挙しても全体には及ばない。
というのも言語化という高い壁があることが大きく起因しているだろう。
部分を列挙する際に、言語化は必須。
全体は言語化出来ないから全体であり、
「「可愛い」」のかもしれない。
可愛いものは、全部理解出来なくていい。
だって可愛いから。
理解出来ないものを、可愛いで片付けたら、あの嫌いな大人みたいにはならないだろう。
お腹すいた。