みんなカス
「羨ましい」と「嫌い」は紙一重だ。
一見相反する感情に見えて、その根底にあるものは同じだったりする。
まず共通性から。
それは相手との間に何かしらの相違点があるということ。
「違う」ことが前提で生じる感情ということ。
そして紙一重で異なる点は、
それに「憧れ(後述)」を抱くか、「理解不能」と感じるか、だ。
憧れと簡単に言えばそれまでだが、これも大きく2種類ある。
1つは「自分もそうなりたい」という憧れ。
志望校に受かった先輩に憧れること、
可愛い女の子と付き合った親友に憧れること。
もう1つは「自分は成れない」という憧れ。
とても自分じゃ行けない大学に行った先輩に憧れること、
自分の好きだった女の子と付き合ったイケメンに憧れること。
これらは羨むことに直結する。
それでは次に
嫌うこと、理解不能についてだ。
往々にして人は、相手のことを自分に置き換えて考える。
その思考は「相手の立場になって考える」とは別物であることを明記しておく。
その際に理解出来ないと結論を出したとき、「嫌い」は生じることが多い。
例えば真昼間に、先生に手を引っ張られてギャーギャー歩くクソガキ(可愛い)がいたとしよう。
その目の前で汚いオッサンがバカスカ煙草をふかしながら歩いていた、なんなら子供に向けてぶちまけてたとしよう。
まあ理解出来ないだろう。
まず汚いこと。風呂入ってくれ。
歩き煙草はするな、(人前では)特にガキの前では。
とまあこんな感じで嫌う。
なにを思って汚い格好をしているのか、
なぜ子供に煙を向けられるのか、
わからない。
わからない(=こわい)=嫌い
となってしまうわけですね〜。
ちょっと話をまとめます。
「相違点」→「憧れ」→「羨ましい」
①なりたい
②なれない
→「理解不能」→「嫌い」
僕は冒頭でこの二者は紙一重だと言いました。
それは、この過程で僕たちは「自己肯定」を行なっていることにあります。
「羨ましい」時には
「なりたい」から頑張ろう、やり続けていい、という肯定。
「なれない」けど自分は自分だからしょうがない、という肯定。
「嫌い」の方が想像し易いだろう。
「自分だったらこうはしない」という自己肯定を行なっているのだ。
羨むことが「自己肯定」の類だなんてにわかに信じがたいだろうが、思い当たる節があるはずだ。
例えば、みんなお金が好きでしょ。
お金持ちを羨むとき、自分がお金持ちになったことを想像しやしないかい。
自分も出来る、自分なら出来ると肯定していることになるだろう。
とまあ例の如くだらだらとペンを走らせてみたが、「自己肯定」の感情は他にもある。
このことから学ぶべきは、
「人は自分ばっかりの卑しい生き物」ではなく、
「人は自己肯定でもしないと生きられない弱い生き物」だということ。
そして「自己肯定をしているという自覚」を持つこと。
自覚すると意識出来る。
意識出来ると能率化出来る。
もっと自分を可愛がってやれる。
自己肯定しまくってゴーイングマイウェイ。
自分守ってエンジョイユアライフ。
因みに僕は死ぬほど褒め上手です。
あなたが自分を可愛いがれなくなったら、僕が可愛がってあげます。
しぶとく生きろよ、ブラザー。