余、私かに思ふやう
人を傷つけるコンテンツは万人受けしない、すなわちコンテンツとして欠陥がある、ということを前提に話す。
誰かを特定して言っている訳でも、啓発をしたい訳ではない。
ただこれでいいのかと、ふと思うことがある。
ちゃんと考えているのか、と。
例えば、音程があっていてふわっとした歌声を聴いて、「良い声」と言うこと。
それは確かにあなたのとって良いのかもしれないが、客観的に見れば、それは疑いの余地がある。彼はその歌を自作しているのか、否、カバーである。
彼は歌を練習し、上手と言われるまでの歌唱力を持っているが、彼が歌っているのは、違う誰かの努力の結晶だ。
それを歌う許可を取れと言っているのではない。恥ずかしくないのか。ただアクセスしやすいコンテンツから安い「良い」を手に入れ、満足する。
もっと考えろ。
その魂胆にある、動いているお金はなんだ。
彼は本当にその歌を歌いたいのか。
その歌は彼に歌ってもらって輝いているのか、作曲者は本望か。
人々よ、どうか簡単にものの価値を決めないで欲しい。簡単に「良い」をつけるな。「エモい」で片付けるな。感情表現をしろ。喉元まで出かかっている言葉で窒息しろ。息を止めろ。まだまだいける。
先人たちの争いは、僕たち子孫に害のないものを残した。それ故に、「悪くない」コンテンツが蔓延する世界になった。
勿論「悪くない」コンテンツでいいなら構わないが、僕はみんな(僕の愛する人々)に幸せになってほしい。それも「良い」コンテンツで。
僕のこの滅茶苦茶の文章を少しでも理解してくれようとしてくれる人がいるなら、幸いです。
立ち止まって、目を閉じて深呼吸をする。
なににでも飛びつかない。
背筋を伸ばし、胸を開いて、凛と見据える。
あなたが「良い」と思うものは、あなたにとっての「良い」に過ぎない。
忘れない